カフェではなく焙煎所を目指す
ツーリングの目的地を決める際、私たちは景勝地や名道を優先しがちです。
しかし、視覚的な絶景と同じくらい、あるいはそれ以上に記憶に深く刻まれるのが、嗅覚の記憶です。
見知らぬ地方の街を流しているとき、ふとヘルメット越しに漂ってくる、香ばしく甘い焙煎の香り。
その香りを道しるべにバイクを停めることこそ、大人のツーリングの醍醐味と言えます。
ここで目指すべきは、単にコーヒーを提供するカフェではなく、生豆を焼き上げる設備を持ったロースタリー(焙煎所)です。
カフェがレストランだとすれば、ロースタリーは農家や工房に近い存在です。
そこには、世界中から届いた緑色の生豆があり、焙煎機という巨大な鉄の釜があり、火加減と時間を秒単位で操る職人(ロースター)がいます。
なぜ、わざわざ旅先でロースタリーを訪ねるのか。
それは、その土地の水、空気、そしてロースターの哲学が、ダイレクトに味に反映されているからです。
東京の洗練されたショップにはない、その土地ならではの土着的な力強さや、流行に左右されない頑固な味づくり。
特別な味の源流に触れることは、効率化されたチェーン店では決して得られない、文化的な体験なのです。
本物の仕事場を見極めるための審美眼
では、見知らぬ土地でどのようにして良質なロースタリーを見つければよいのでしょうか。
スマホの評価サイトを見るのも手ですが、私は自身の審美眼と直感を信じることをおすすめします。
まず探すべきは、建物の屋根から突き出た煙突です。
本格的な焙煎を行っている店には、必ず排気のための煙突があります。
そして、ガラス越しに見える焙煎機(ロースター)の佇まいにも注目します。
ドイツ製のプロバット(PROBAT)のような重厚な鋳鉄のマシンか、あるいは日本製のフジローヤルのような質実剛健なマシンか。
バイク乗りがエンジンの造形に惹かれるように、使い込まれた焙煎機の手入れ具合を見るだけで、その店主がどれだけ道具と味にこだわりを持っているかが分かります。
また、地方のロースタリーは、古い蔵や倉庫、あるいはガレージを改装していることが多く、バイクとの親和性が非常に高いのも魅力です。
コンクリートの床、高い天井、そして漂う豆の香り。
このような空間は、長距離を走ってきたライダーの心を落ち着かせる不思議な力を持っています。
店に入ったら、ぜひロースターと会話を交わしてください。
バイクで走ってきて「少し冷えたので温まる一杯を」「この土地の水に合う豆はどれですか」と尋ねる。
こだわりの強い職人ほど、こうした具体的なオーダーには熱量を持って応えてくれるものです。
その対話の時間こそが、最高の一杯へのスパイスとなります。
豆という名の物語をパッキング
ロースタリーでの体験は、そこでコーヒーを飲んで終わりではありません。
気に入った豆をお土産として購入し、バイクに積んで持ち帰るまでが、この旅の作法です。
旅先で購入する豆は、単なる食品以上の意味を持ちます。
その場所で見た景色や交わした言葉、空気感を真空パックした記憶の媒体です。
100gや200gの豆であれば、積載量の限られたバイクでも無理なく持ち帰ることができます。
シートバッグの片隅に忍ばせた豆は、帰路の道中、微かにその香りを漂わせ、疲れを癒やしてくれるでしょう。
数日後、自宅に戻ってからその豆を挽き、いつものカップで飲む。
その瞬間、部屋の中に旅先の風景が鮮やかに蘇ります。
「あのときのロースターは、深煎りの美学を語っていたな」「街の風は冷たかったな」と、味覚と嗅覚を通じて時間旅行を楽しめるのです。
地方のロースタリーを巡ることは、日本各地に自分の味の拠点を増やしていくことでもあります。
絶景は写真に残せますが、空気感や味わいは、自分の記憶にしか残せません。
効率よく観光地を回るよりも、一杯のコーヒーのために道草を食う。
そんな贅沢な時間の使い方ができるライダーこそが、真の旅人といえるのではないでしょうか。

