南アルプスの「ろ過装置」が作る水
甲斐駒ヶ岳の麓、山梨県北杜市に位置する尾白川(おじらがわ)。
日本名水百選にも選ばれたこの川の水は、サントリーのウイスキー蒸溜所がここにあることからも分かる通り、日本屈指の質を誇ります。
今回のツーリングの目的地は、この神の水とも呼ばれる湧き水を使って、いつものスペシャリティコーヒーを淹れることです。
尾白川の水の特徴は、何と言ってもその圧倒的な柔らかさにあります。
花崗岩の層を長い年月をかけてくぐり抜けてきた水は、余分なミネラルが削ぎ落とされ、硬度は日本の平均よりもさらに低い「約30mg/L」という超軟水です。
一般的に、硬水で淹れたコーヒーは苦味が際立ち、軟水で淹れると酸味や甘みが引き立つといわれています。
しかし、私が期待しているのは、単なる酸味の強調ではありません。
不純物を極限まで取り除いたこの水が、コーヒー豆という素材そのものの輪郭を、どれほど透明に映し出してくれるのか。
普段、自宅の浄水器で淹れている味が日常の画質だとするならば、尾白川の水は、それを8Kの高解像度に変えてくれるのではないか。
そんな仮説を胸に、冷たく透き通った水をケトルへと満たします。
白砂の河原で執り行う抽出の儀式
現地は、白い花崗岩の砂とエメラルドグリーンの淵が美しい、まるで異世界のような空間です。
バイクを停め、適度な岩場を見つけてチェアを広げます。
川のせせらぎは静寂を深めるBGMのように響いていて、とても心地よいです。
アルコールストーブに火を点け、湯が沸くのを待つ間、空気を深く吸い込みます。
標高の高さゆえの冷涼な空気と、湿り気を帯びた土の匂い。
五感が都市モードから自然モードへと切り替わったタイミングで、湯が沸騰の合図を送ります。
適温まで少し冷ました湯を、挽きたてのエチオピア・イルガチェフェに落とします。
その瞬間、立ち上るアロマの質がいつもと明らかに違うことに気づきます。
香りが軽いのです。
重たく鼻に残る香りではなく、風に乗ってふわりと広がる、花のような香り。
湯が粉に浸透するスピードも、心なしか速く、滑らかに見えます。
まるで、水そのものが豆と一体化することを喜んでいるかのよう。
ドリッパーからサーバーへと落ちる液体の色は、黒ではなく、透き通った琥珀色に輝いています。
この抽出のプロセス自体が、一期一会の特別な体験として刻まれていきます。
豆の魂だけが残るような透明な味わい
マグカップに口をつけた瞬間、最初に感じたのは違和感でした。
それは、これまで飲んできたコーヒーに必ず存在していた雑味や引っかかりが無いからです。
驚くほど口当たりが滑らかで、液体が舌の上を抵抗なく滑り落ちていきます。
そして、その後に広がるのは、強烈なまでの果実味と甘み。
苦味は角が取れて丸くなり、まるで上質な紅茶やフルーツジュースを飲んでいるかのような錯覚に陥ります。
これが、超軟水の実力なのでしょう。
水に含まれるミネラル分が少ないため、コーヒーの成分と化学反応を起こして阻害することなく、豆が持つポテンシャルを100%、いや120%引き出しています。
飲み干した後、口の中に残るのは、嫌な渋みではなく、クリーンな甘い余韻だけ。
まるで水そのものが透明であったように、味わいもまた、どこまでも透明でした。
景色、空気、そして水。
すべての要素が調和したこの一杯は、単なる飲料を超え、身体の細胞を洗うような体験でした。
バイクで走り、現地で水を汲み、その場で味わう。
このプロセスを経なければ決して辿り着けない味の頂点が、確かにここにはありました。

